読谷山花織

出典:http://www.yomitan-kankou.jp/detail.jsp?id=55892&menuid=11950&funcid=3

沖縄の代表的な織物、花織。そのうちの一つ、読谷山花織。よみたんさんはなおり。正式には、ゆんたんざはなうい と読みます。

沖縄県指定無形文化財、経済産業大臣指定伝統工芸品です。その起源から、現在に至るまでの歴史にドラマがあります。

読谷山花織の「起源・発展・衰退・復興」の歴史

起源・発展

読谷山花織は沖縄本島を中心に織られる、花柄を織り出した浮き織の紋織物です。14世紀後半、琉球王朝時代に読谷村長浜を拠点に展開された南方諸国との交易によってもたらされた技術をもとに、本島中心部の読谷村で織り始められたとされています。

琉球王府の保護のもと発展し、首里や与那国、竹生島などに伝えられ、各地で独自の花織が織られるようになりました。花織は手の込んだ贅沢な織物であったこともあり、王朝のご用布とされ、貴族・士族のみ着用を許されました。その中でも読谷山花織だけは、読谷山の住人にも着用が許されていたといわれています。

14世紀以降は、読谷の人々の日用品として、女性たちが家族のために織っていました。主に防寒用の着物(わたじん)・手巾(てぃさーじ)・祭り衣裳(うっちゃき)です。織り手は着る人のことを考えながら着物一反を長めに織り、その残りで手巾を作り、旅に出る家族や愛する人に贈っていました。「うみないてぃさーじ(祈りの手巾)」「うむいのてぃさーじ(想いの手巾)」です。「想いのこもった布」を身につけると、その「想い」が身につけた人を守ると考えられていました。

衰退・復興

この独自に織られ受け継がれてきた読谷山花織の染織技術はやがて衰退します。

衰退には、幾度かのきっかけがありました。初めのきっかけとなるのは薩摩藩の侵攻といわれています。ほかの織物は貢納品に指定されましたが読谷山花織は指定されず、しかも読谷村はサトウキビが貢納品に指定されてしまいます。厳しい統治下にあったため、手の込んだ工程の多い花織を織る余裕が失われていったのではないかと考えられています。

つぎのきっかけは、明治の中ごろです。廃藩置県により琉球王国が崩壊し、独自の文化は後進的なものとして否定されるようになります。中央志向が強まるなか、本土からもたらされるもののほうがありがたがられる時代の波に押され、読谷山花織は衰退しはじめます。

さらに大きなきっかけとなるのが第二次世界大戦です。織り手も織り機も失い、読谷山花織は「幻の花織」となってしまいます。織物自体も灰塵に帰す状況の中で、昭和30年代から、周囲の反対にあいながらも当時の読谷村村長の池村さんは復興を望み、後に無形文化財の保持者・いわゆる人間国宝に指定された与那嶺貞さんに依頼をします。与那嶺さんは土地の古老たちに聞き取りを行い、残っていたわずかな祭り衣裳を手掛かりとして読谷山花織を復元しました。

占領治下にある沖縄の軍雇用で働いていた母親たちができる仕事はないかと探していた矢先に花織が候補として上がり、読谷村の村興しが「シークワーサー」と「花織」になり、そして昭和39(1964)、与那嶺さんを中心に復興が進んで行きました。

読谷山花織の特長

読谷山の花織は、文様の部分にのみ色糸を使って浮き織の花模様を織り出したものです。その花柄は写実的なものではなく、点で表した幾何学的な花模様で、斜め十字や星に近い形に見えるものもあります。絣と組み合わせて織られます。

意匠設計、図案作成、染色、製織、仕上げ、検査まで、ざっくりと数えるだけでも50以上の工程を経ます。

紋柄・模様

花織には基本の紋柄があります。お金をかたどった文様の「銭花(じんばな)」は、裕福になりますようにと願いが込められており、末広がりの扇形をうつした「扇花(おーじばな)」は子孫繁栄の願いが込められています。また、97歳になると風車を配る習慣があり、その風習から長寿の願いを込めて「風車花(かじまやーばな)」が作られています。この三つを基本とし、ほかに30種ほどの模様があります。この花のような幾何学模様に絣柄・格子・縞を組み合わせ、読谷山花織は独特の趣に織られてゆくのです。

織の技法

織り方は二通りあます。一つは「手花織(でぃばなおり)」です。手で平織の地に別糸を縫い取るように織り込み、模様を構成します。細かい刺繍のように見える織上がりです。手で織るので自由な文様を織り出せます。

もう一つは織機を使う綜絖織です。花綜絖を使う「経浮花織(たてうきはなおり)」「緯浮花織(よこうきはなおり)」で、経浮花織は縦糸方向に、緯浮花織は緯糸方向に色糸を使って模様を織り出していきます。

染色

染料は、主に植物染料です。福木(ふくぎ。オトギリソウ科の常緑高木。インド原産。沖縄では防風林として植えられる。樹皮を染料とする)、車輪梅(てかち=しゃりんばい。バラ科の常緑低木。東北地方南部以南で庭木や公園樹、道路の植え込みなどにする。樹皮を染料とする)、琉球藍(キツネノゴマ科の多年草。蓼藍ともインド藍とも異なる植物。枝葉を染料とする)などです。ほかにも山桃、茜や蘇芳などが使われます。

もとは木綿を中心とし、琉球藍で染めた平織の地に、白・赤・黄・緑の色糸で浮き織にするのが特徴でした。現代では、絹で織られることがほとんどになりました。

人の手による見事なもの・着物

沖縄の花織は、読谷山花織のほかに首里花織や南風原花織があります。織の技法や使う地色や色糸に特色がありますが、いずれも浮き織の紋織物です。紅型の次の位置づけであり、祝い着として用いられました。着用できるのは読谷山の住民を除き、琉球王族・貴族のみという歴史がありましたので、現在でも格の高い着物として位置付けされます。

絣とも紬とも違う独特の花織は、通ごのみの着物のひとつ。合わせる帯は、紅型なら華やぎが、ミンサーならシャープさが。南方の着物には南方の帯がよくなじむようです。草木染の色のやさしさや、緻密な織文様の見事さ、人の手による店頭工芸品は廃れてはならない日本の宝物です。その宝物を身にまとう楽しみが、着物にはあります。

さいごに

筆者はこの記事を執筆するにあたり、改めて読谷山花織を勉強し直しました。織りや染めの独特の技法だけでなく、時代背景や戦後の国・村の復興、失われないようにと復元に尽力した方々、これまでの道のりなど、感慨深く興味深い事柄ばかりでした。

シンプルにただすてきと思っていた花織に深い技術と深い物語がありました。高価なので気軽に求められる着物ではありませんが、いつかご縁あって得る機会があればいいなと思います。